最近借りた本。

”モンテ…”も”シュタイナー”も「いいよ~」とは見聞するけど、何がどう良いのかきちんとわからないでいるので、ふと借りて読む。

印象に残っていることをおおまかにメモ。

モンテッソーリ教育のこころ

モンテッソーリ教育のこころ

・「気の狂ったお母さんカエルが池の小さなおたまじゃくしに『水からあがって、新鮮な空気をすい、みどりの芝生のうえで体をやすめてごらん。そうすれば、みんな強く健康でかわいいカエルになれますよ。さあ一緒においで、ママが一番よく知っているから』といったと仮定します。この小さなおたまじゃくしは従順であろうとすれば、かならず、死んでしまうでしょう。」1930年のモンテッソリーの講演での言葉。

大人は、子どもをよく「ウオッチング」し、子どもの興味関心が何かを知ることが大切。その上で、子どもにとっての最上の「環境」を大人が用意する。(この「環境」の中では、壊れたオモチャ、足りないオモチャなどはいけない。完璧に揃っていないといけない。)その中で、子どもを「自由」にし、遊び切らせる。そこに「集中」が生まれる。「集中」を経て、「解放」へと向かった子どもの性格は、落ち着いたものとなる。他人にも優しく接することができる。

・モンテッソリー学校の「宗教コーナー」には、ラファエロの「椅子の聖母子」の複製画がかけられている。すべて子どもの目線に沿った、子どもに合った大きさの用具を使って「宗教的活動」をする。すると子どもに「宗教的器官」が出来上がり、自己実現を助けるための、子どもの「内的生命」の欲求を満たすことになる。

・「静かごっこ」をする。子どもは本質的に静かになることが好き。

・先天的に「秩序」も好む。秩序立てることは分類できることであり、分類できることは識別、違いを認識することを意味する。秩序は調和の取れた人格形成という教育的問題とからみあう。

・「形式陶冶」。

シュタイナー教育を考える (朝日文庫)

シュタイナー教育を考える (朝日文庫)

・教育機器という「にせもの教師」が生身の人間から発するはずのきずなを断ち切るようなことは良くない。

・幼いうちから「自分で判断しなさい」というのは良くない。子どもにいつわりの自意識を強要することになる。

・「自分で自分をしっかりとらえ、一番深い内部の欲求から自覚的に行動すること」を「自由」ととらえ、その「自由への教育」を行う。

・7歳までは、大人は子どもの良い「模倣」の対象となっているべき。次の7年は、大人は子どもにとって「権威」でなくてはならない。

・授業は「芸術的」であるべき。国語も、数学も、すべて。「無意識」に働きかけるもの。具体的なものから抽象的なものへ移る。「意思と感情をともに動員した知育」でなくてはならない。

・「生活科」の授業の眼目は「人間によってつくりだされた世界を、単なる傍観者としてではなく、直接肌で強く実感すること」。目的は「子どもが徐々に自分の住んでいる世界を知ることであり、物事の裏側にはいろうと思えばはいれるのを認識すること」。

・衣・食・住について「全体を見通す」ということが大切。(具体的には「糸をつむぐ」とか「パンを焼く」とかそういうことの)「技術」を習得することが目的ではない。

・「9歳の危機」。ファンタジー→リアルな世界へと子どもの思考が大転換する。主観→客観。

・つめこみ教育はいけない。内的好奇心に沿っていかなければばらない。

・からだについても、「心」についても、「固化」から「動」への動きを心がけているほうがよい。

(生の)音楽や絵は「動」へやるもの。「固化」へのものは現世に生まれてきた以上必要なもの(exテレビ、レコード)、「動」へのものは人間の本質にとって必要なもの。