昨日は、「オープンチャーチ」に出かけた。

最近、毎週火曜日に「バイブルクラス」というのに通っていて、聖書の読み方を教えてもらっているのだが、そこで、ケリーさん(宣教師の奥様)が、オープンチャーチ(月末にある)は、クリスチャンじゃない方も多いし、気楽な女性の会という感じよ、と誘ってくださったので、出かけることにしたのだった。

今回の内容は、ケリーさんがアメリカのワシントンD.Cを紹介する、というものだった。

パソコンの画面で街のたくさんの風景を映し出して、いろいろと説明くださったので、行ったこともない街を旅行したような、楽しい気分を味わうことができた。

お昼は、ケリーさんや牧師さんの奥様や、教会員の方が料理されたお料理で、会費制で行われているが、どのメニューもおいしくて、みなさんお料理上手だなーと感心する。

私は初めての参加だったので、自己紹介を、ということで、<近所でたまたま通りかかって、というようなご縁で足を踏み入れさせていただいているのだが、牧師さんのお話に毎週感動して、日曜日の礼拝に参加させてもらっている。しばらくの間、日曜学校にも子どもたちも連れてきていたのだが、夫の「まだちょっと早いんじゃないか(まだ自分の意思のはっきりしない子どもを、宗教的な場に参加させたくない)」という意向で、今は私だけ、育児の息抜き、というような気持ちで参加させてもらっている>とお話した。

その後談笑の場で、教会員のTさんという方が


という本を貸してくださった。

その方は、もう成人された三人のお子さんを持つ方だが、<ちょうど今のあなたの境遇と、二十五年前の私の状況が似ているのよ>とおっしゃる。

その方も、当時クリスチャンではなかったのだが、三人の子どもを抱えて育児に行きづまることもあったし、何かむなしい思いも重ねて、教会の門をたたいたというのだ。

こうやって優しく声をかけてくださって、愛読の書を手渡してくださるご厚意がうれしかった。


さて、私が少しでもキリスト教の言葉に耳を傾けて、今、思うこと。

確かに、聖書の言葉は、人が生きるべき指針や、癒し、平安を与えてくれるように思う。

毎週宣教師や牧師さんの声を通して語られる神の教えによって、励まされ、自らをいましめる機会を与えられ、また一週間がんばろう、という気持ちにさせられる。

しかし、それでも私はどうしても<キリストを信じる>という気持ちにはなれないんじゃないか、と考える。

それは、キリスト教は「唯一神」の信仰だからだ。

私は、これまで何を信じているというものもなかったが、日本に生きる日本人として、仏壇にお線香をあげ、神棚にお神酒をささげ、初日の出を拝み、七五三をお祝いする、といったごちゃまぜの土着信仰のようなことを三十四年間やってきたわけだ。

そこへもってきて、「キリスト教唯一神なので、他のものを神とあがめることは一切やめ、ただイエスだけを信じなさい」と言われても、すっと受け入れることはできないのだ。

しかし、聖書の神の教えを、仏教神道とともに「同時に受け入れる」という心構えなら私は十分に持ちえるし、現に教会に通ったりすることにも今の私の中において少しも違和感を感じない。


それはやはり、遠藤周作が「沈黙」という小説に表しているように、私自身も、片端から外国文化を取り入れては自分に都合のよいようにそれらを変化させ自分のものとしてしまう、日本人の特性を受け継ぎ持っている、と解釈するよりほかはない。


そんな今の自分が苦しいのは、キリスト教を受け入れてみたいと思うのに、キリスト教が私を受け入れてくれないと思わざるをえない、矛盾を感じることである。

また、聖書は「まず家族を大事にしなさい」と説き、本当にその通りだと自分をいましめてくれるのだが、私がキリスト教に染まることを夫は反対しているのに、私は教会でもうちょっと話を聞きたいのだという葛藤を持たなければならない、ということである。


しかし、そんな私にも、同じ道を知っている人は言う。

<受け入れることと、伝道することは同一である>

<すべては神のご計画のまま>。


まあ、もうちょっと考えながら前に進んでいくことが必要なようだ。

遠藤周作のエッセイは良い。

彼は基督者だが、仏教神道や日本の古典にも精通していて、どちらがいいとか悪いとかいう見方ではなく、どちらもこういう側面がある、という解釈で鮮やかにその対比を見せてくれる。

もうちょっといろいろ読みすすめてみよう。