2014-07-29

 起きて朝ごはん、学校、家事、自由時間にピアノの練習、気分転換にジョギング。そのような連続した毎日の中で、「歴史」に思いをはせるほどの余裕がないのが私にとっては現実だ。学校では社会で「歴史」を学ぶ。けれどもそこでは起こった事実や年号を覚えることにせいいっぱいで、その時代に今の私たちと変わらず血を通わせて生きている人々がいたという当たり前のことを、いきいきと想像することができなかった。

 けれども「語りつぐ者」の主人公エリザベスは違う。自分の母方の祖先であった女の子ズィーが、アメリカ独立戦争で母や父をなくしながらも、たくましく生きていく過程をありありと想像し、それを言葉にしている様子が描かれている。

 21世紀に生きるエリザベスにとってアメリカ独立戦争というと、二百数十年も昔のことだ。日本でいえば、江戸時代末期の頃である。私にはその時代の自分の祖先を想像することができるだろうか? 武士だったかな、商人かな。いや、私の父も母も田舎の田んぼに囲まれて過ごしていたから農民か。でも、祖先のどこかをたどれば立派なお侍もいたかもしれない。そんな程度の想像しかできないが、エリザベスには、ズィーの人生をたどりはじめることができたきっかけがあった。それは、ズィーが描かれた一枚の絵だ。

 ズィーのその肖像画は、母の姉であるおばリビー家の玄関に飾られていた。エリザベスにとって遠い祖先になるズィーの雰囲気はエリザベスに似ているところがあって、ひきつけられるようにエリザベスは絵の中のズィーに話しかけた。

 きっかけは、次の偶然につながる。学校の社会の先生から、家にある昔のものを持ってくるように、という宿題が出て、エリザベスはズィーの絵を持っていくことにする。そこでうっかり絵の額ぶちを壊してしまうが、それによって絵の裏に描いてあった奇妙な線を発見する・・・。

 ストーリーの中で、とても印象に残った場面があった。おじのハリーが、エリザベスに向かって「おまえさんは、全身、これ物語だ」と話した部分だ。エリザベスは、はじめそのおじさんの言葉の意味がわからなかったが、ハリーが「おまえさんの頭の中には、物語がぎっしり詰まってるんだよ」と興奮しながら話すのを聞いて、自分が「自分を物語でいっぱいにすること」を何より望んでいることに気づく。そのことで、自分の先祖のズィーが体験した出来事を物語にして、父や将来の我が子に話してやりたいという思いを明確にする。

 エリザベスはそれまでは、自分のことにあまり自信を持てないでいた。友達の中で目立つような存在でもない、いろいろな勉強でいい成績が取れていたわけでもない。けれどもこの場面で、自分は「物語をつくる」ことに才能があると自他ともに認められることとなり、その夢に向かって進んでいこう、と決めたのだ。

 エリザベスは、ズィーの生きた時代について調べ、ズィーの夫となった人がその肖像画を描いたのではないか、というヒントを得る。そういういくつかの「事実」をもとに、アメリカ独立戦争当時の人々の営みを鮮やかに想像する。戦争によって近所で助け合ってきた仲間が対立し殺しあったり、食べるものがなくてひもじい思いをしたり。そんな事実とからみあった物語は、聞く人の心を打つ。

2世紀以上昔の人物が、実体験を自分の子や孫に語り聞かせたことは、そのまた子や孫に語り継がれるときは、厳密には事実と異なってしまったり、フィクションとして細部がおぎなわれてしまったりするかもしれない。それでも、戦争で身を切られるようなつらい経験をしたこと、その上でアメリカが独立したことによって今の自由なアメリカの暮らしがあることなど、物語のエッセンスは脈々と感動とともに伝わっていくものだろうと思う。

 私たちが未来を生きていく上で、歴史を振り返ることは大事だと誰もが言う。その通りだとは思うが、目の前の出来事にとらわれてばかりいると、過去のことを考えることがきちんとできていないのが実情だった。

 けれどもそんな過去が人を感動させる物語となって身近に触れることができたとき、じっくりと歴史を考えてみる良いきっかけとなる。この本は、社会の教科書の一ページでしかなかった「アメリカ独立戦争」をなまなましく私にイメージさせてくれた。私が生まれる前のはるか昔からの歴史一場面一場面が、このように人々の日常を凝縮したものであると実感しながら、これからは歴史の教科書をめくり、自分の日々の生活に映し出してみたい。

 私もその中で、エリザベスのように「全身これ物語」の才能があるかどうか、模索しながら。