2016-08-25

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今日お昼頃、山手線に乗りこんだら驚いた。車両の全部がオリンピック(リオ)の広告。ドアの張り紙、吊るし、映像、さらには床が陸上競技場のトラック同様に青く塗られていて、白いラインまでひいてあった。

リオで活躍したいろいろな選手の写真。その脇には感動を呼ぶ言葉の数々。思わずぐるりと車内を見渡してしまった。

昼の山手線は空いていて、ほとんどの乗客が壁沿いの座席に腰をかけている。10中8、9の人が自分のスマホの画面に集中していて、これらの広告を気にかけている様子はない(ように見えた)。

白いラインに沿って腕を振って走り出したくなったのは私だけか(笑)なんてオチを考えていたら、品川あたりで混んできて、男性のふたり連れが「おっ何だこりゃ」「今さらって感じか」なんてしゃべっているのが聞こえてきて何だかほっとした。

にしても、どうにも私は違和感を感じていた。前にも書いたけど、ネットゲームの広告で車両が埋めつくされていた時もそうだった。

ほぼ公共の乗り物にそれぞれの駅から乗ってくる人たちは、それぞれに自分の思考を頭にめぐらせながら乗車をする。なのに乗り込んだ瞬間、車両をハイジャックしたような広告に、一瞬のうちに自分の脳みそがハイジャックされたような気分になる。この何ともいえない違和感。

広告は、雑多であるからいい。ぼーっと電車で考えごとをしながらきょろきょろあたりを見まわした時、いろいろな情報が目に入ってくるからこそ、自分で選択した視界の落ち着くべきところに落ち着く。

なのに、この全面広告で感動の押し売りでは、みんながみんな同じ考えで、同じところに向けた仕組まれた何かのように思えずにはいられない。そういう違和感なのだと思う。

注釈するならば、ゲーム広告のときは、私がゲームを好きではないからという思いもあったけど、私は決してオリンピックを嫌いなわけではないし、むしろ応援して楽しんでいた。

でもこれは、テレビでチャンネルを合わせたり、店に入って雑誌を手に取ったりするのとは違う感覚だ。

ほかひとりひとりで乗っている乗客たちに「何か違和感かんじませんか」と聞く勇気が持てなかったのが、今から思えば残念だったか(?)。

ちなみによく見ると広告の主は、某一流企業の数々が連名したもののようで張り紙の一部に続けて名前が入っているのだけど、そう主張している感じでもなかった。

それもある意味作為的だと感じた。