旅行のための大きな荷物を持って、ホームに並んでいた。
朝早いけれどもう明るくて、都内へ仕事へ向かうのだろう人たちを見かける。
待っていた電車が到着。ドアがあき、順番に乗り込む。
車両の中は、座っている人に混じって、何人か立っている人もいる。が、座席はちらほらあいている。1人なら、さっと座るところだが、3人の子どもたち(といってももう中・高・大学生だけれど)も一緒なので、どうしようか迷っていると、息子(中学生)が、「あっ」と小さな声をあげた。
顔を向けたほうを私も見ると、そこにはあいた3人分の座席があった。
家族でまとまって座れる、そう思った瞬間、その3つ並んだ席の真ん中の背もたれに、何かがついているのがわかった。
よく見ると、それは翅を広げてとまっていた、オオミズアオであった。
なぜ、電車の車内に。そんなことを思う間もなく、私は反射的にそのオオミズアオを手にとり、閉まりかけた電車のドアから外へ放った。
もしかしたら元気がなくて、その瞬間にホームに落下するかもしれない。そう心配したけれど、オオミズアオはゆうゆうとはねを広げて、高度をあげて飛び去っていった。
ほっとひと安心して、席へ。と思ってあらためて座席を見ると、オオミズアオがいた背もたれが汚れているように見えた。
体液か?怪我をしていたのだろうか。そんなことを考えながら近づいてよく見ると、それは丸いつぶのようなものだった。ぽつん、ぽつんと2か所に分かれて、数個。
それをおそれて、座れないでいる我が子たち3人(笑)だったが、私はすぐさまティッシュを取り出し、そのつぶを捕獲した。
よく見ると、それは排泄物かとも思ったが、丸く固いので、もしかすると卵かもしれない。そう、卵だ。オオミズアオは、なんと電車の座席の背もたれに、産卵していたのだった。
写真のとおり、卵はうすいしまもようをしていた。ティッシュでくるんだそれを、私は大切に鞄のポケットにしまった。
そして、何ごともなかったように、我が子たちはその3人分の座席に腰掛けた。(笑)
常磐線のその車両の座席は、濃いブルーの色をしていた。そこに、うすい水色をした健康なオオミズアオがとまっている様子は、今思い出してもそれは鮮やかな光景だった。
3席分の真ん中に、まるでブローチのように存在していて、もしかすると他の乗客たちは、その神々しさをおそれ、席をあけていたのかもしれない。
いや、そんなことはないだろう(笑)。みな、見て見ぬふりをしているのだ。
大きな蛾を、さわれないのか? 座る場所が他にあればそれでよいのか。
蛾が嫌なら、大きな声をあげた人もいたかもしれない。
けれども私たちが電車に乗り込んだときには車両の中はとても静かで、それぞれがみな自分だけの世界にいるようだった。
私たち4人の一連の動きを見ても、それに対して何かを言う人もいなかった。
茨城方面から来たその列車に、オオミズアオはどうやって迷い込んだのだろう。
夜行性の蛾は、どこの場所かで電車の光に寄せられ、まだ夜明けのうす暗く乗客の少ない時間、あいたドアからそれと気づかずまぎれこんでしまったのだろうか。
オオミズアオの幼虫は、クリやサクラ、ミズキなどの広葉樹の葉を食するという。母オオミズアオは、そういった産卵をする場所を探して、広葉樹を渡りあるこうとするうちに、列車に飛び乗ってしまったのだ。
そんな想像をする乗客が、この車両の中に何人いただろう。おそらく、見たかぎりではそのような人は誰ひとりとしていないようだった。
もしここに、昆虫好きの少年が同乗していたら。夏休みなのだから、家族のレジャーで朝早くから出かけるということもあるのではないか。
その昆虫少年は、きっと、ブルーの座席にとまったオオミズアオに、目を輝かせたに違いない。そして、卵まで見つけて、かならず大事に自分の虫かごに入れるはずだ。
そんな昆虫少年だった大人は、ここにはいないのだろうか?忙しく仕事に出かける朝、そのような気持ちはすっかり忘れてしまったのだろうか?
私の妄想はここまでにしよう。とにかく、オオミズアオは元気に外へ飛んでいったし、卵は手元にある。
今日からはじまる私たち家族の2泊3日の旅行はきっとうまくいく。
朝の光が、強くなった。