私の父は、昭和23年生まれの59歳。

戦後すぐ生まれのいわゆる「団塊の世代」だ。

今年度、定年になる。

長い間、お仕事お疲れ様でした。

最近TVを見ても新聞を読んでも、団塊の定年だとかシニアライフだとかいった話題でもちきり。

そのたびに、群馬の実家の父を比して思ってしまう。

父はどんな思いで仕事や結婚生活をしてきたのかなあとか、これからどう過ごしたいのかなあとか、メディアで取り上げられた同世代の例と似ているのかそうじゃないのか、などと考える。

父は公務員。G大の工学部で「モンブギカン」という役職名で働いている。

が、実際にどんな内容の仕事をしているのか私はついぞよく知らない。

大学の研究室の教授を手伝う役目?であると聞いたことがあるくらいだ。

地元の工業高校を卒業後、G大の夜間の短大を出て、そのまま研究室に残って就職した。

当時のお給料は2万円だったと聞いたことがある。

それからまもなくはじまった結婚生活で、専業主婦の妻を持って、父と母はよくぞ私と妹を私大まで出して育ててくれた、と妹と話したこともあったものだ。

がんばって、きりつめた生活をしていたのだろうなあ。

私は大学に進学するまでそんなふうにあまり意識したことがなかったけれども、それを意識させないように父母は育ててくれた、のだと思います。

それはともかく、はためには子煩悩な父、とうつっているようだ(親戚のおばさん談)。

たしかに私や妹の小さい頃は、休日にはドライブで公園に連れていってくれて家族で遊んだり、冬になればスキーに行ったり、カメラやビデオを持ち歩いたり、そう見えるのだろう。

そして、それ以上にヘンにチャレンジャーで行動的なところがある。

週末にはよくテニスに出かけていた。大学の人や地元の人たちとプレーを楽しんでいたらしい。

撮った写真やビデオなんかもよく整理しているほうだと思う。

毎週水曜日の夜は、家族の記録の上映会、と称して、昔の音の出ない8ミリやスライドに加工した写真をスクリーンに映して家族みんなで鑑賞していた時期もあった。

しかし、多少飽きっぽくて、新しもの好きで、そのくせモノを捨てずになんでもため込んで、あんまりひとつのことが長続きしない、という印象があるのが否めない。

「NHKラジオ英会話」なんかもそれなりに続けていたようだけど、ちっとも上達しない。

あるとき、母と父がスーパーに買い物に行って、すれ違った外国人が何かちょっとしたことを父に話しかけたという出来事があったそうだが、父はまったくしどろもどろだった、と笑い話になったこともあった。

寒い冬の朝、小学生だった私とジョギングに一緒に出かけていた時期もあった。

鼻をたらしながら、近くの神社の鳥居まで走って戻ってくる。

でも、この早朝ジョギングは私のほうが先にギブアップしたのだったかな。

ああ、それから父は古びてさび付いたクラシック・ギターを一本持っています。

けれども弾けるのは「バラが咲いた」だけです。


…書いていると私自身によく似ているところがあって、イヤだなあーと思ったりもする。

でも、そんな父のことはなんだかそれでもおちゃめで憎めないという気もする。

しかし理科と数学だけは、私が高校生になってもいつまでも勝てないと思った。

私は父が理系だから、自然に自分も理系の道を選んだつもりだった。

父のように「センセイ」に、それも理科の先生だったら実験とか楽しそうだなーと思っていた。

でも、私はまったく数学や物理ができなかった。

わからない問題をちょっと父に聞けば、さらっとかつくどくどと教えてくれた。父は、父本人は知っている知識なのだろうが人に説明するのはヘタだった。

それでも、さすが電気系統の知識はあるのだろうなーと尊敬したものだった。


今の趣味は「山登り」のようだ。

中高年からの山登り。

週末にはご近所と連れ立ってあちこちへ出かけている。


この先定年したら毎日どうやって過ごすのかな。

私は千葉だし、妹は大阪だし、父母を夫婦2人きりにしてしまった不安?みたいなものは子どもの私にもそれなりにあります。

どうかずっと元気でいてください。

それでも、お父さんが今おじいちゃんを毎日お見舞いに行ったりそれ以前までは何かの折の週末にはおじいちゃんちに兄弟集まってお酒を酌み交わしておじいちゃんのボケ防止に将棋を指したりしていたように、私もそんな父の姿を将来のモデルとして見習いたいとは強く私の心中に刻まれています。


59歳ってまだまだ若い、はずなのだ。

私の、24年後。