無理は禁物…。

今日は、一日勇樹と伶果と一緒に過ごした。

秋晴れで天気も良く、勇樹がいつものことながら「一緒に遊ぼうよー」「お外でボールしたいー」とさわぐので、私も伶果ももう大丈夫かな、とはじめて伶果を新しく買ったベビースリングに入れて、外へ出た。

伶果はベビースリングの中がとっても快適らしく、私の胸に抱かれてすぐに眠ってしまった。

案外ずっと掛けていても軽いので、勇に「ボールキックしてよ」と言われるがままに、調子に乗って勇とサッカーに興じていた。

…ら、その日の夕方から、ビテイ骨のあたりが痛くなってガニ股にならないと歩けなくなり、さらには熱まで出て、フラフラするようになってしまった。

産後の体は、やはり無理は禁物…。

その日の夜は、全部夫に夕食の準備やらなにやらやってもらって、早めに就寝した。

いったい

子どもが2人になったら、どうやって世話をするのだろう!と、子どもが2人のママ友たちを見ていると大変そうだなあ~、すごいなあ~、とばかり思っていたのだけれど、実際自分で2人持ってみると、案外それでもそんなに大変ではないと感じている。

これまで勇樹だけを見ていた時は、勇樹の遊びには「つきあわされる」というような感覚で、私はあれもしたいのに、これもしたいのに!早く私を自由にして~!なんてずっと思っていたけれど、伶果がいる今は、伶果におっぱいをやる「ついでに」勇樹と遊び、勇樹と遊んでいる「合間に」伶果におっぱいをやる、といった具合で子育てをしている気がしていて、その「ついで」感覚が効率的な気がして気分が良く(!?)、精神的に余裕を持って2人の子どもに接することができている感じがする。

それは、ままある意味、「自分のしたいこと」をあきらめてしまっている時間を過ごしているから、と言ってもいいのだけど、それを今の自分は全然苦痛に思うわけでもない。

これは、自分でもびっくりするほどの心境の変化だと思う。

今はこの2人の子どもがかわいくて仕方がない。

人は「2つ(以上の)顔」があるとうまくバランスを保って生きていける、とはよく言われている。

例えば、仕事持ちつつ趣味を楽しんだり、恋愛をしたり。

そしてそのどれかが欠けると、とたんにその他のどの行為もうまくいかなくなったりする。

どうもそういったセオリーが、「2人の子育て」にも当てはまっている気がしている。

2人の子育てと、自分と、の歯車が、うまく回り出してくれるといいなと思う。

まだ

「新生児」(生後1ヶ月未満)の伶果は、本当に食べてしまいたくなるほどかわいい。

生まれて間もない赤ちゃん特有のしぐさである、両手をあげてビクッとする様子や、鼻をフガフガいわせて左右に振りながら、丸くとがらせておっぱいを探すくちびるや、ミルクのような体全体のにおいや、満足そうに寝入りそうになる前に見せる無意識に笑った表情や、座らない首や、触れたモノをぎゅっとにぎる両手や、そういった何もかも…がすべて愛らしくてずーっと眺めていても飽きない。

この小ささや未熟さを象徴するものは、いずれ消えてなくなってしまう…ということが一人目の育児を経験してよくわかっているからこそ、そう思うのだろう。

一人目の時はなにもかも新鮮だし、それはそれでもちろんかわいかったのだけど、今のような気持ちではなかった。

初めてという不安もあったろうし、泣いてはどうしよう、困った、の連続だった。

「這えば立て、立てば歩め…」の言葉通り、早くどんどん大きくなってほしい!と思っていた。

それが、今ではちょっとくらい泣いてもそれがまたかわいいし、おっぱいが欲しいのかな、と思えばいつまででも何度でもあげていたいなんて思っている。

一人目の時にはちょっと泣いて実母や夫が「おっぱいなんじゃないの?」なんて言おうものなら、「さっきもあげたのに!」とイラついてばかりいたのに、その時とはあまりにも違う自分がとてもおかしい。

たぶん、ほとんどのお母さんがそうなんだろう。

これまで、

「二人目って、純粋にかわいいよ~」

「早く大きくならないで~って思うよー」

という先輩ママたちの言葉を聞くと、

ふうん、そんなものなのかなあ、と思っていたのだけど、それが実感できるようになった。

一人目も、二人目も、もちろんそれぞれにかわいい。

けど、そのかわいがり方が違うことで、兄弟の特性も現れてくるのかもしれない。

これも親になってはじめてわかったことの一つ、である。