ウグイスの鳴く声とともに

先日、こちらで存じ上げたご家族のご主人が亡くなられた。

御歳59歳、ガンとの壮絶な戦いの末、最期はむくみで足の毛穴から水が出るほどの苦しみを経験されたとのことだった。

献花でお顔を拝見したとき、ふつうならどんな場合でも「安らかな寝顔」と声をかけたくなるものと私は思っていたが、どうしてもそのお顔には言葉を絶するほどの苦しみの跡がうかがえるような気がして、私は棺に向かってまっすぐにご挨拶することができなかった。


それでも、亡くなられたその方はとても幸せな人生を送り、今も天国で穏やかに生きておられると確信できるほど、そのお式は愛に満ちたもので、ご遺族も満足していらっしゃるのだろうと私にも感じられた。

私は教会のお葬式というものに初めて参列した。

毎週礼拝のある教会で、いつものお顔が集まり、そこに親戚、友人知人が足を運び生前の故人をしのぶ。

ふつう現代のお葬式といえば葬式のためだけに使われる会堂で行われることが多い。

しかし、信者にとって日常の場である教会でなされる式は、まるで慣れ親しんだ自宅でアットホームに行われるお式のようで、私もとても心が和んだ。

賛美歌も参列者全員が声をそろえて歌い、牧師は毎週末必ずそうしているように、同じように壇上にあがり、説教をする。

若くして亡くなった故人を思い会場は涙が絶えないが、それでも昇天した故人には安らかな天国に入るという希望があり、いつか私たちもそこで再会できるのだ、という安堵感さえ感じさせるその一連の式の流れ。

それは、初めて教会のお葬式に参列した私にとっては一種のカルチャーショックを受ける体験だった。  


納骨をする霊園ももちろんキリスト教会式なのだが、いくつかの教会の墓地が集まるその霊園は、私が昔散歩をしたことがある青山墓地や横浜の外人墓地のように、静かで落ち着いた公園のようだ。

3月の終わりから4月にかけてはキリスト教でいうイースター(復活祭)なので、故人の命日にかかわらずどこの教会でも特別な「墓前礼拝」を年に一度のこの時期にすると聞いた。

だから、ちょうどどのお墓の前にも、お花が添えられている。

それらのお花は(当然なのだが)色柄の地味な「仏花」などではなく、贈り物にするようなフラワーアレンジメントや花束らしいもので、墓地のまわりの新緑の風景とそれらの花々が重なって、墓地とはいえどこか明るい雰囲気をかもし出しているのだ、と思われた。   


墓前でもやはり、皆で声を合わせて賛美歌を歌った。

そこへ、木々の間から「ホーホケキョ」というウグイスの声が聞こえた。

ああ、これはいい伴奏が聞けましたね、とどなたかが言う。

ほんとにそうですね、とみなが笑い、ひとときその声に耳を傾ける。

のどかな春の日差しの中の式となった。


どうぞ、心よりのご冥福をお祈りいたします。