2011-07-14

もう少しで夏休み・・・。

来週の火曜日に幼稚園終了式、翌日20日には小学校終了式。


先月末で、2001年の終わりから約2年間借りていた「さるさる日記」が

終了してしまうというので、こちらの「はてな」ブログに記事を移した。



久ーしぶりにさっと読み返してみたけれど、

・・・一生懸命「母親になる」

ことを努力していた

当時の心境を思い出した。




それまでの自分の生活から、180度変化した環境に

なんとか慣れようと、必死だった。

日記に日常のありのままを書こうとし、

時に「演じている」と思うほど書き込んでいくことで、

だんだんと「母親」になっていける気がしていた。




環境の変化に追いつけるしなやかな順応性があればいいなあと思っていた。

自分がそこでそうしていることに、ずっと軽い違和感があった。

そして、そんな素の気持ちを「ママ友」に相談することもできず、

けれどもふっとそんな話題になったとき、

「私もだよ」と言ってくれる人がいると、

ずいぶん心が楽になった。






そうこうしているうちに10年。

途中、まず一年間日記が抜けているのが

さとかを妊娠していた時期。

妊娠中は肉体的にも精神的にも余裕がなくて、

そんな中で「ままとーん」の活動とか

添削の内職など忙しくしていたのだったか。

なおかつ、「書かなくても」済むくらい、

その日常に安住することが

できはじめた時期、だったのかもしれない。



次に抜けているのが、

新居を建てるまでの丸一年間。

この時は、家のことを考えるのに頭がいっぱいで、

夫ともよく相談(ケンカも(笑))したし、

目標に向かってひとつひとつ何かを成し遂げていく生活・・・という感じでした。

この時期のことをちゃんとまとめておいたら

面白い記録になっていたとも思うけど・・・






そして今。

私はたぶん時と経験ととともに

自然に「母親」になり、

それと同時に「私は私である」ということにも気づいている。

つまり、「母親になる」ということは

子どもを自分とは違うひとりの人間として意識するということ。

だからこそ、私は私であるという答えにたどり着いた。

そんな当たり前のこと、

はじめからわかっているよ、ばかだねえ、という人たちも

世の中にはたくさんいるかもしれないけれど。

子どもの成長を見ていて、

「母親」には無理に「なろう」とするものでもないし

子どもは(環境を整えてあげた上で)見守り

つきあい

尊重するのがいいのだし

そんな私はやっぱり私なのだし

と感覚的に思うようになった、ということかな・・・



「母親になる」

=私の人生の中心に子どもを据える

ことに、環境的になったことに

違和感があった、ということかな・・・

それを目指すのではなくて、

(とはいえ、そうならなきゃいけないという固定観念と、

そこを抜け出して、自分のための何か、も確立したくて

そこがVSの関係だったということかな・・・)

それでも子どもがだんだんひとり立ちしていく過程で

私は私をとりもどしていくようで

母=子(対等)(母の中に取り込むのではなくて)

 という人間関係ができてきて

自然に「母親」=「私」と感じられてきたのかな・・・




赤ちゃんだったユーキは

あと3ヶ月で10歳。

母の「付属品」のような、でもはじめからそうではなかった、ということだけれど

「親子」でも「別の人間」 のはざまを行きつ戻りつしながら

自分でいろいろと考えはじめているようだ。



夢と現実の境目を意識するようになり

(何を夢とし、現実とし、追い求めようとするのか)

それならば今の私などよりもずっと賢い(将来があること)と思い

(「老人」の夢と現実に対するアプローチは若者と違う)

そんな私は子どもの「思い描く理想」を手助けする役割に徹したいとも思い

自分自身が子どもから大人になっていった道のりを思い返しながら、

我が子の言葉をひとつひとつ、頭の中で繰り返す。



うまく言えないなあ・・・

大事なのは、バランスってことだと思うのだけど・・・

行きつ戻りつ・・だなあ・・。



・・・なんて考えている場合じゃないっ(笑)

おしごとおしごと!



●子育てしている間に知った、すてきな言葉。

♪子どもが増えると、親の愛情は分けられて減るのではなく、

2倍、3倍と増えていく。


♪子どもが増えると、その「にぎやかさ」は

2倍、3倍、でなくて

2乗、3乗!?(ということは、3人いたら・・・?)