「ロストジェネレーション」

もう1月の話になるが、朝日新聞朝刊で「ロストジェネレーションー25~35歳」と題したコラムの連載をやっていた(全11回)。

私は今現在34歳で、ちょうどこの世代と重なることもあって、とても興味深く読んでいた。

「日本がもっとも豊かな時代に生まれたが、社会に出た時戦後最長の経済停滞期」で、「バブル崩壊を少年期に迎え」た結果、「『失われた10年』に大人になった若者たち」であるこの世代をこう呼びたい、ということなのだが、私自身もこういう世代に生きている、ということに重みを感じるひとりだ。

この「さまよう2000万人」を、「~世代」とひとことで名付けるとしたら、何なのか。

全11回の連載で取材された同世代のさまざまな経験から当てられたそれら言葉を並べてみよう。

「踏み台世代」「転身世代」「反乱世代」「世直し世代」「仮面世代」「自分探し世代」「消耗世代」「起業世代」「難婚世代」「愛国世代」「脱レール時代」「まじめ世代」「創造世代」・・・。

これらの言葉からまず言えるのは、同じような価値観で言い表せた以前の世代とは異なり、さまざまな生き方があって、ひとことではくくれない世代である、ということだ。

しかし、メディアでも最近は盛んに取り上げられているように、この世代が直面している一番の問題点は、正規・非正規雇用間に広がる大きな格差に関してである。

34歳の私の場合、高校を卒業する時が「バブル」の全盛期で、商業高校などを卒業して就職先を決めた友人たちは口をそろえて、引く手あまただった、とその当時言っていた。

それが、私たちが大学を卒業する4年後はすでに「氷河期」で、学生時代の友人はみな望みの職を探すのには苦労する時代になっていた。

私自身は教職を希望して採用試験を受けたが、10倍程度の難関で、私はその枠に入ることができなかった。

しかし臨時で雇われる話が来て、そのまま6年間、あちこちの学校で働いた。

その間も毎年採用試験を受け続けたが、採用枠は年々厳しくなるばかりで、いっこうに本採用がされることはなかった。

そしてだんだんと、次々に結婚していく友人たちを目の当たりにして、自分もまた「新しい人生」を歩んでいこうという気持ちになって、結婚を期に退職をした。


本採用にならなかったことは毎年本当に残念だったけれども、自分の力が及ばなかったんだなあと認めていたし、子どもにも恵まれて「新しい人生」が始まれば、それで幸せで満足できるだろう、と考えていた。

ちょうど自分の母親がそうやって生きてきたよう(に見えたよう)に。

でもなぜかそれが、自分の「思い描いていた通り」にはならなかった。


育児にも慣れてきた一年目くらいで、私は「得体の知れない」不安や虚無感を強く感じるようになった(いや、正確に言えば、「このまま仕事もしないで子育てだけしていていいのだろうか」「自分自身の生きがいを持たなくていいのだろうか」「夫のだけでなく自分の収入をもたなくていいのだろうか」といったような、湧き上がってきた思いのことだ。けれども当時、「子育て『だけ』をしていて何が不満なことがあるだろうか」という社会通念があると思っていたし、私自身もその概念にとらわれていたから、その新しい気持ちをうまく言葉で説明できなかったのだ)。

でも、周りの同じ「専業主婦の」お母さんたちはみんな楽しそうに公園で子どもを遊ばせているように見える。

こんなヘンなことを考えているのは自分だけなのかな・・・と思った。

でも、思い切って何人かのママ友さんたちや、「女性問題のカウンセラー」などに相談してみたら、「そんなふうに感じる人はたくさんいる」と知った。

そこから、私は「社会の問題」として自分の気持ちを投影することを考えるようになった。



「大日向雅美」さんや「松井るり子」さんの著書に励まされたこともある。

私は、これまで「仕事を得られなかったのは私の能力不足が原因だったけれども『新しい人生』が始まれば『自分の母親』のようにまた違った幸せの中に生きられる」と考えていた。

しかし、それは間違いだった。

「仕事を得られなかったのは半分くらいは就職難だった時代のせい」と考えることで、自分自身を責める苦しい「挫折感」から少し逃れることができた。

また、「専業主婦で幸せになれる」と考えられたのは以前の時代のお話であり、豊かに育ち、学歴もつけてもらった私たちの世代は「それだけ」では満足せず、「仕事も結婚もお金も」全部持たなければ満足できないぜいたくな世代である、ということもわかってきた。




仕事をしていたときは、自分自身のことにせいいっぱいで、あまり周りをかえりみる余裕がなかった。

それに、「格差社会」はバブル崩壊以後じわじわと広がっていただろうにもかかわらず、メディアでも、すぐにそう取り上げられることはなかった。

だから、最近「格差社会」の問題が大きく言われ、「非正規雇用の問題」の解決策が多方面から論じられているのを多く耳にすると、やっと私は自分の居場所がみつかったような、「自分の問題を社会が取り上げてくれている」というような「安心感」を私は感じてしまったりするようだ。



「自分が何者であるか、なんて自分を縛りたくない」などと言って強く羽ばたける「勝ち組」な人たちもいるかもしれない。

でも、私は「私は○○である」という定義づけが自分自身に早くできてしまえば、こんなに楽なことはない、と思っている。

ひとりの個人の思いとして、「△ちゃんのお母さん」でも「家事をがんばっています」でも「パート勤めをしています」でも「趣味は◇です」「☆の勉強をしています」でも何でも自分がこれ!と思ったらそれでいいのだ。そして「それ!」と思い続けられるといいのだ。

「こういう世代を生きています」と自分を客観視できた上で、「それでは」自分はどうするのか、どうできるのか。

「それでも」自分はこうなのか、「そうするしかない」のか。


私は冒頭で書き並べた「○○世代」という名称のうち、どれを自分に当てはめてみようか。

そんなことをまだ思い悩んでいたりするけれども、それは万物流転、栄枯盛衰行く川の流れは絶えずして、自分の思いとは別に社会や環境がそれを許さないかもしれないが、それでもやっぱり自分の「強い意志」が何にも増していちばん必要なのだ。

ここでは、まだよくわからない「神様」のことなどは考えたくない。