「得たもの」  (とりあえず全8回の)「バイブルクラス」が終わった。

終わってみておもうのは、やはり「学び」と「信仰」の間には隔たりがある、ということだ。

私は勉強することができて、自分がこれから生きていくうえで得たものは大きいなあ、と思うけれども、それが即「信仰」に結びつくことはなかった。

「私はイエス様を信じ、神の意思を自分の意思として生きようと思います」ということを、口に出して言うのは簡単だけれども、「心からそれを言ってください」と言われたら、まだ躊躇してしまう。

「信じますか?」と問われたら、「信じてみようかな、という気持ちは持てたとしても、『信じます』とは今は言えません」という答えになる。

「信じる」先には「洗礼」という具体的な扉もある。しかし、夫は「キリスト教は世界第一の詐欺集団だ」とか相変わらず言っているし、実際問題自分が死んだら教会でお葬式を出してもらうなどということも今は考えられない。

そんな中で、「得たもの」とは。

前も書いたかもしれないけど、「感謝」と「謙虚」の気持ちを持ち、それを表しながら生きる、ということだ。

日曜学校に来ている子どもたちは、ほとんどがクリスチャンの両親を持っている子たちだ。

日曜学校の先生も、そのような親たちがかわるがわるやっている。

その内容はというと、賛美歌を歌い、聖書のお話を読み、そして「お祈り」の時間がもうけられるわけだが、その時にまず親たちが、「何かお祈りしたいことはありますか。」と子どもたちに聞く。

すると、子どもたちは先を争って元気よく手を挙げる。

指された子は次々と「(自分が)昨日転んで怪我をしたのでそれが治るように」だとか、「友達が引っ越ししてしまうので、その友達がさびしい思いをしないように」とか、「○○ちゃんのお母さんに今度赤ちゃんが生まれるので、赤ちゃんが元気に生まれてくるように」「運動会で一等賞がもらえてうれしかった」などと答える。

そして、ひととおりの願いが出されると、先生は「では、親愛なる神様。□□とのことですが、どうぞ△△をお守りください。◇◇ように、どうかお助けください。それから、○○という良いことがありました。ほんとうに神様、見守ってくださってどうもありがとうございます。・・・・これらすべて、イエス様の御名(みな)によってお祈りいたします。アーメン」と、すべての皆の願いを祈りの言葉として述べる中、みんなで両手を組み、頭を垂れてお祈りする。

私は、その光景にとっても衝撃を受けて、感動したのである。 

子どもたちがそうやってごく自然に、誰かを思いやる気持ちを言葉にできること。

自分の望みを人に伝え、神の力を借りるというお願いながらも、その中で努力して自信を持って自分の力を精一杯発揮しようとすること。

うれしかったことがあれば、やはりそれを皆に報告し、その感謝の気持ちをあらわにすること。

そういうことのできる子どもたちは、とてもすばらしい、と思った。対して自分はそんなふうに子ども時代も、今までも、過ごしてこなかったなあ、と考えさせられた。



日本の公立学校では、宗教には中立的である、という考え方のもと、ともすれば宗教は「触れるべきでないもの」、もっとすると「忌むべきもの」というところまで、それに対する子どもの精神を育んでしまう、といっても過言ではないと思う。

その結果、「~教」と聞くだけで、多くの日本人は拒否反応が起こってしまったりする。

そうなると、「信じるもの」が「自分」や「他人との相対価値」であったりして、それで「うまくいっている」と思い込めることもあるだろうけれども、いつかそこに疑問や破綻を生じさせることになる。

けれども「道徳心」や「良心」や「自我」では言いつくすことのできない、宗教に関わるその先の「人間には見ることができない、人知が及ばない部分だけれども、でもその向こうに何かあると思う畏怖の念」を、おのずと心の中に人間は持っているべきだ、とやはり思う。

なぜならそうあることで「人間至上」「自分第一」の考え方でなく、もっと謙虚に、より広く深くものごとを見通した思想で、調和のとれた生き方ができるのではないか、と私も思うからである。

そのためには、ある意味宗教的な場に子どもを立たせるという経験は、必要なのだと思う。

だから、特にクリスチャンでなくても、私立の「キリスト教系の小中学校」だとかに行かせたい、と思う親も少なくないのだろう。



そんなこんなをいろいろ考えさせられて、今うちでは子どもたちと一緒にすることにした「儀式」?がある。

それは、寝るのに布団に入ってから、「今日のありがとうと明日のお願いしますをしよう」というものである。

しかしクリスチャンでない私たちは、両手を組んだり「アーメン」と言ったりはしない。

(けれども息子は日曜学校に出席した経験からそうしたがることもあるが。でもそうなると夫も意見があるだろうから。)

「今日のありがとうは何だった?」と私が聞く。

すると息子は「自分が無事に幼稚園から帰ってきたこと」などと言う。

日曜学校のお友達の様子を見て、自然にそういうことが言えるようになった息子のことがうれしい。

ひとつの話をきっかけに、その日のできごとをいろいろと互いに話す。

今日はこんなご飯を食べたけどいただくことができてありがとう、とかそんなことも話す。

ひと段落して、「じゃあ明日のお願いしますは?」と聞くと、「またパパが無事に会社に行って帰ってこられるように」などと息子は返事をする。

「風邪で幼稚園を休んじゃったお友達がいたんだよね、じゃあ明日はその子が元気に来られるようにってお祈りしよう」と問いかけてみれば、「うん」となる。

それで、明日の予定などを話し合って、そして、ぜんぶ、そうなりますように、と一緒に願って、ではおやすみなさい、と眠りにつく。


そこには決まった神は不在である。

でも、話の中で関係することがあれば「神様は空から見ててくれるよ」とか「神様はどこにでもいて力を貸してくれるんだよ」などという話題が出たりもする。

こういう「儀式」を夜やり、だだだっとあわただしく過ぎる一日をもう一度ちゃんと振り返って「誰か、何か」に対して「ありがとう」と思い、言うことで、自分や子どもをとても有難く貴重な、生かしてもらっている、めったにないすばらしいもの、と実感できる。

これが、私の「得たもの」というわけなのだ。




・・・では、置き去りにされた問題、キリスト教を本当に信仰する、とは?

それは、まだ私の中で答えが見つかっていないので、いずれもっと考えを深められるといいなと思う。

・・・本当に信仰する価値があるのかどうか? それとも、万難を乗り越える覚悟をしてでも、そうするべきなのか?・・・