一生をあらわす文章

人が何十年か生きて死んだあと、その人を端的にあらわす言葉なり文章を、少なからず目にしてきた。

そんなとき、たいていはそれでそうなのだなあ、と納得した。

 

 

それが、自分の近しい人であると、なんだか違和感があるのはどうしてだろう、と思った。

ひとつには、そんなひとことで、そんな短い文章であらわすには、もっといろいろな思い出がありすぎる、

ということなんだろうか。

 

けれども、身内でない人が、「この人はそうだったんだなあ」としのぶとき、短文は重要で、自分が知っているその人とあわせて、頭の中でなき人の像をつくる。

尻切れトンボにならないように、起承転結が構築されて終わり良くまとまるように。

そしてひとつのパッケージとなり、徐々にとむらわれるきっかけになる。

 

 

『我が家の風景と共に甦るのは、いつも皆の為にと心を尽くしてくれた姿です。台所や庭先などそこかしこに あたたかな面影が残っております。

剪定ばさみの軽やかな音と一緒に聞こえていたのはご機嫌な鼻歌。花瓶に季節の花を飾り、彩りを添えておりました。日常を振り返ればとても色鮮やかで・・・今はただその存在の大きさをかみしめるばかりです。

娘、孫たちにも分け隔てなく愛情を注いでおりました。時に厳しくしつけることもありましたが、一人ひとりを正しく導いてくれたように思います。器用な手先で子供達の洋服を縫っていた優しいまなざしも忘れられません。

もっとあちこち出掛けることができればよかった、もっと喜ばせてあげたかったと心残りは尽きませんが、そんな思いもお見通しなのでしょう。向かう先ではどうか安らかに休んでほしいと願っております。』

 

 

葬儀社のその道のプロフェッショナルな方が、父子の会話を聞き書きしてまとめてくれた。ほんとうにプロだ。みなで感嘆した。もちろん、言ったことが書かれている。ぼんやりともやがかかったように美しくなって。たとえるなら、画像編集アプリをワンクリックしたくらいのものだ。そして、言っていないことは書かれていない。

 

20代前半以前のことは書かれていない。なぜなら実際には私たちは何も知らないからだ。

さいころから一緒に過ごしたきょうだいや、友だちに聞くのだったら、もっとほかのエピソードがあったかもしれない。

 

 

葬式というものは、「家」から出すものなのだ。故人=個人の全体が、本当のところはどうということではなく、とても形式的なもの。

 

「お世話になった皆様へ 心から感謝申し上げます」というタイトルではじまるこの文章は

決して間違ってはいない。嘘ではない。けれども、と感じてしまう。

 

 

私だったら、私が死んだらどうしてほしいのだろう、と考えてみる。

私は、自分のことを、そんなふうに形式的で美しくしたひとことで、まとめてほしくない、と感じているのかもしれない。

私は私全体のままで、なんの言葉にもせず、そのまま燃やして無にしてほしい、と思っているのかもしれない。

それで、それぞれの人の中に、断片的に残っているのかもしれない私の像をそのままに、しておいてもらえればいいと。


 

私は私の中で、多くの思い出とともに生きている。

それは経年によりうすれていく場合も、解釈がじょじょに変わる場合もあるだろう。

それで正解。

むりに即席の言葉にしなくていい。

ほんとうにつづりたい言葉で、つづりたい時に、思いをまとめればいい。