牛と豚と鶏

昭和50年代、私が小学生だった頃
北関東の平地の田舎では、牛舎、豚舎、鶏舎があたりまえのように点在していた。
それは今の北海道とかのイメージする、広大なものではなくて、
それほどは大きくない家畜用のたてものが、畑の合間にある感じで。

同級生の、○○さんちは酪農をやっている、△△さんちは豚、□□くんのとこは養鶏、と
おうちの仕事がそうだという友達も身近だった。

学校の校外学習といえば、そんな友達の家を訪ねるということも多かった。
うちは、田舎でもサラリーマン家庭だったので、お父さんが
そうやって毎日家畜の世話をしているのが仕事、というのを目の当たりにすると
クラスで普通にしゃべっている友達が、急にまぶしく見えた。

私は当時じぶんで一匹の犬を飼っていて(茶色い雑種犬で、名前はポチとつけた)
毎日(朝夕)散歩に連れ出すのが日課だった。
散歩コースは、家の周りの、畑ばかりの道。
近くで済ませることもあれば、余裕があるときにはちょっと遠くのほうまで出かけていった。

すると、かならず今日は養鶏場、今日は豚舎、今日は牛舎というように、
その近くを通ることになる。
そんな中で、自然にそれぞれの家畜のにおいを覚えていった。
それは「くさいな」と思うものではあるが、くさいと言っていても仕方のないことで
散歩コースの風景の一部というようなものであり、当たり前に自分の身にそのにおいの感覚がついていった。

だから、自宅のすぐ近くの畑で肥料がまかれれば、
「豚のをまいてるな」とか、「鶏か」「牛ふん」かどうかは
自然にわかった。

鶏は、なんていうか、乾いたにおい。豚はツンとくる。牛は、まろやか(笑)。

これは、文字で伝えようといっても難しい。よっぽど文章の才能があればよいのだけど

それで、このにおいをかぎ分ける感覚。誰にでもあると思っていた。
べつの言い方をすれば、例えば絶対音感があって、音をドレミで言えるのは当たり前、というような。


しかし、大人になったとき、そうじゃないんだ、ということがわかった。

現在の居住地は関東ではあるが東京近郊で、もよりの駅から電車で都心まで40分で行ける。
それでもちょっと車で走れば田畑が点在していて、時期には肥料のにおいがすることもある。

子どものサッカーの試合でそんな畑が近い小学校に行ったことがあった。
すると、同じチームのママたちが
「くさい!くさい!」と連呼するわけで(笑)


私としては、それが何か?というくらいのものなのだけど、都会育ちなのか身近にそういう環境がなかった人にとってみれば
未知の体験だったのだろう。

その時、私は自分のこの「家畜のにおいをかぎわける」能力を、武器にしようと思った(笑)。

今、理科関係の仕事をしているから、理科っぽい趣味や話題を口にするとそれっぽい(笑)ということもあって、
自己紹介では「牛と豚と鶏のふんのにおいをかぎ分けられる」というのを特技ということに、
ここ数年してきている。
すると、だいたい「へえーすごいね」とすごくもないふうに反応され、
つまりは自分にはまったく経験のない、興味のないこととして取り扱われることがほとんどだ。

ああ、「わかるわかる」と言ってくれる人に出逢わないものだろうか。今のところ、この近郊ではそういう方の
おめにかかったことはない。

そればかりか、自分はこの「特技」を、自分自身では「イナカ出身」
と卑下する気持ちが40%、誇りに思う気持ちが60% くらいの割合の気持ちであるのだけれど
(この、4:6という微妙な比に、私の気持ちを汲んでもらいたい笑)

せんじつ、はじめて私自身としては「馬鹿にされた」と思わざるを得ない事件が起きた(笑)。

この自己紹介の文面を、勝手に変えて、それぞれの家畜のにおいを適当に表現される(いろいろなかぐわしいものを例にあげる)
という出来事があったのだ。


私は、今回の自己紹介では、上記に書いたような、においを言葉で表現するということはせず(なにしろ先ほど述べたように
文にするのは非常に難しい)、
ただ「それが特技です」と書いただけだったのだが、
他己紹介」のような形になっていて、ウケをねらいたいような文章にしてあったというか・・・。

その、<適当に表現>されて、他の方々にそれが伝わったと知ったとき、私は自分でも驚くくらいの
衝撃と怒りを感じた。

なんていうか、自分の子どもの頃の経験を、軽んじられた感じというのか。


もちろん、そんなことは顔にも出したくはないし、反論もしなかったけれど、
ふと思い出してこうやって文章にしてみたわけです。


ああ、私ったら心がせまいんだろうか(笑)
いや、わかってくれる人もいるにちがいない。
私だって自分自身で「ウケ」をねらって特技と言っているけれど、
心の底ではそういう中を生きてきた誇り、というものがあるのだ。



この間、実家からこんな絵が出てきたからかな。
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小2。酪農をやっていた同級生のおうちに学校から見学に行って、えがいた記憶がある。

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これも小2のときかな。豚を飼っていたおうちの。


身近にこんな環境があったなんて、なにものにもかえがたい経験だった。
北関東の底力。
私たちはそういうものを食べて生きてきたんだ。


今はすっかりあちこち宅地になり、ショッピングセンターになり
太陽光パネルが立ち並び
パッチワークのような景色になってしまった。
もう二度とはない景色。失われた過去。

それでも今でも畑で風にそよぐ、残された麦を見るとき、私の心は落ち着くのだ。
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小6の時の絵。担任の先生が「同じ緑じゃないんだよ。よく見て、ひたすら細かくかきなさい」
と言って、ひとり1本の麦を(おそらくそこらへんからとってきて)渡して、描かせた。
私はまじめに、水彩絵の具でいろいろな緑をつくって、何時間もかけてかいた。
この時のことも、よく記憶している。
大きく余白を残した、たった一本の細い麦が、奥深い宇宙のように見えた。



追記:「△□先生らしい、大変上品で高貴な特技です。牛は太陽のあたたかさとスパイシーな匂いを凝縮したような香り、豚は鼻の奥にキーンと響くような気持ちを高揚させる匂い、鶏は音楽で言う高温が響くようなにおい、だそうです。かぎ分け方について、ぜひ教わってみてください」
と書かれた。
だそうです、て、私は一切そんなことは言ってないし書いていない。
もし、こう書いたご本人がそう思うなら、私はそう感じますがどうでしょう、と書いてほしい。
人があたかもそう書いたように書くのは捏造で、本人の思いを無視している。
ひどいのは、自分がそう書いたことに、一切悪気がないのだろうなというところ。
ほんとうに、やめてほしい。
(笑いごとじゃ、ありませんよ。)