↑記念館で買ったポストカード
おなじ構内に「会津八一記念館」があり(1998年開館だそう)
とおーーーい記憶が、ぼんやりと、そしてしだいにあざやかに、よみがえってきた。
そうだ、私はこの会津八一さんに、とても親しみをもっていたのだった、20年をこえる昔むかし。
書道の講師を高校でしていたころ、会津八一の漢字かな交じり書は、教科書にのっているほど有名だった。
しなやかなのに芯があり、筆をうらにおもてに、めくるめくように自由自在に、心のままにあやつりながらじぶんの思いをしるした書。
まさか、ここでこんなにとつぜんに、会津八一さんの直筆を眼前にできるとは。
かれは、英文学を学んでいたが、のちに東洋文化を研究し、早稲田の先生となる。
「書家」だけであったのではなく、自分の分野の学びがあったうえでの、書。
書には、そのひとがでる。教養をかんじる書。技術だけではなりたたない。
ひるがえって、現代のわたしたちは、書で思いをあらわしたり、ひとがらを伝えることを、なんとおろそかにしているのだろうと思う。
ひさしぶりに、そんなことをふかく考えさせられた。
平成8年5月、私(24歳?)は新潟にいき、先輩方とまなんでいたのだった、その報告文
※笹神村で横山蒼凰先生におあいし
碑の道やまびこ通りを散策し
その翌日
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ちょうど「独往の書・会津八一」というタイトルのもとに
企画展が行われており、東洋美術の研究、短歌、そして書と、
独学によりそれぞれの道を切り開いてきた八一を回顧していた。
普段、書物ではよく目にする八一の書の実物を見ることができ、
明瞭で独特な書風の美しさに感嘆した。
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この当時は、まだ早稲田には記念館はなかったのだ。
この後、1998年にできた、という情報は・・・ほんのうすい記憶で、おぼろげには・・・
いや・・・「会津八一コレクション展」という企画展で、どこかでやっていたのを
見にいった記憶もある。
ああ、忘却のかなたになってしまったけれど、沼をかきわけてかきわけて、
思いがけない再開がさびついた記憶の扉をひらいてくれたようだった。